Shizuki Obuchi’s ‘How to Shoot Little Girls’

When one comes across an artist who focuses on the subject of nude little girls or even the erotic portrayal of little girls, many questions come to mind.  First of all, of course, is how the photographer or artist developed such a specialty.  But, perhaps more interestingly, why should the girls be interested in participating with the approval of their parents?  I purchased this intriguing little book several years ago and it was my introduction to Obuchi who is one of the artists featured in Pigtails’ controversial ‘Stolen Dreams and the Japanese School’.  Most such books focus on the actual portraiture of the models with little biographical or contextual background.  This one is different.  Although I have only gleaned the vaguest meanings from the text, it is clear that it was meant as a kind of guidebook with plenty of technical details, anecdotes about the girls and some insight into the attitudes and lives of the girls.  Those who understand Japanese and English are encouraged to assist in translating this opus so that Obuchi’s experience can benefit a wider audience.  The first three chapters have already been translated by one of our readers.  Also, I would like to thank one of our contributors, Moko, for doing the transcriptions for some of these chapters.

[1]撮影準備の前に

カメラを手にして、

さあ、今日は何かいい作品を撮ってみようかなと考え、今まで花を写したり、風景写したり、祭があれば飛んで行きシャッターを押し、夏になれば海に出かけ水着姿のギャルたちをフィルムに収めるなどといろいろなものを写してきたに違いない。しかしだ、何か物足りなさを感じることもあると思う。

君は撮影の時に被写体に新鮮な驚きや、その美しさに感動を覚えたことがあるだろうか。ただ何の驚きも感動もないままに、シャッターを切っていたのではないだろうか。

少女を写す時でも家族の記念写真でも同じだ。ただ、子供が大きくなったから、

じゃあ記念に一枚写真でも写そうか!

などと、なんの感動もないまま、シャッターを押していたのでは、良い写真は作れない。

新鮮な何かを感じ、感動し、心臓の鼓動を激しくさせながらシャッターを押すことが大切だ。写真なんてものは感激に手がふるえ少しぐらいブレた方が良い作品になったいる。今はどのカメラもみなオート機構がついているので露出だ、シャッター・スピードだなんて考えずに、ただ写すことだけに気分を集中できる。極端にいえばカメラを手にし、フアインダーを覗いてもそこに何も感動するものがなかったらシャッターを押してはいけないのだ。驚いたり感動したりしたら、テクニックなどを考えずに、ただ、そのまま素直にシャッターを押してみよう。

この本では子供たちの写しかた、そしてその中でも少女の写真の撮りかたを、今まで、僕が写して来た時に感じたことをそのまま書いてみたい。ほんの少し今までの君の考えかたを変化させるだけで、写真というものは大きな変化が生まれる。

少女の美しさというものは、そのままの少女の美しさもあれば、ある時は少年のように硬質な形を見せたり、大人の女の成熟さを見せることもある。僕はそんな魅力にとりつかれて、この23年間イタリア・フランス・スペイン・ベルギイの国を訪れている。純真無垢なだけに写す側もその純粋なものを大切にしなければいけない。

今までの写真の参考書や教科書や解説書に書いてあることなどは記念写真を写す時に、読めばよいことで、そんなあたりまえの写真術などは無視して、心がはずむような新しい写真を作って欲しい。僕の多くの経験からの写真の作りかたが、君の写真を変えることになるかも知れない。そして多くの新しい写真術を君が発見し、こんな本など気にせずにもっと新しい君なりの写真術を考えて欲しい。

[2]少女の背中は 色つぽいのだ

少女は、どんな時でもできるだけ、かわいらしく撮ってもらいたいし、女というものは5歳や6歳ぐらいの少女でも、写真の中の自分の姿がかわいらしくて、美しくないと、とても悲しくなってしまうらしい。

年齢的に幼いだけに不快感や不潔感や暗いイメージの写真は女の子に嫌われてしまう。少女は、出来るだけかわいらしく写したいと思う。かわいらしさの中にある少女らしさ、そして、年齢的には幼いけれども女としてのエロティシズムというものを、ちゃんと持っているのだ。

少女も7歳ぐらいになれば、少女の背中から腰にかけて年齢には関係なく、女としてのエロティシズムが漂っている。

少女には、たんなる美しさとも、かわいらしさとも違う、やはり女としての美しさが子供のころから、その体のまわりを飾っているものなのだ。

少女の体というものは、成熟した女の体以上に丸みがあり、多くのゆるやかな曲線で出来あがっている。やわらかな長い髪は、少女のやさしさが、にじみ出ているし、小さな肩はいだきたくなるほど弱々しそうだ。そんなやさしさや、弱々しさが、少女の写真の魅力なのだ。

11歳から12歳ぐらいになればバストがわずかながら膨らみが出てくる。成熟した女に比べれば、体のデコボコは、まるっきり幼いけれど、男の子と比べれば、これはまぎれもなく女だし、女の子だ。ウエストのくびれ、そしてヒップも、どの部分もかわいらしい丸みを作っている。この、まだ未成熱な女としての丸みは、できるだけその体を優しく包みこむような横からの光の中で写せば良い。

真上からの光や逆光では、その微妙な曲線はあとかたもなく消えてしまう。

少女のモデルに限らず、モデルが背中を見せている時には、無理に顔をカメラに向けさせないことだ。横を向いていていいし、下を見ていてもいい。自然な感情の流れを写せば良いのだ。表面からカメラを向けている時とは違う。彼女の生活のリアルでプライベートな表情が出ている。その自然な姿が写真を生きているものにするのだ。

顔だけがその人間の感情表現をする場所じゃない。少女に限らず人間の背中というものは、興味のある面白い場所だ。

少女らしい愛らしい背中や悲しそうな背中、恥ずかしそうな背中大人びた背中といろいろある。

少女の背中は、無防備で無表情なはずなのに、カメラを向けると急に背中とか、お尻が意識して表情を変化させる。

[3] 手ブレも味のうち

撮影に少しなれてくると、手ブレを起こさないようにとか、ピントはしっかりと決めなければいけないとか、露出はなどと多くのことをシャッターを押す直前まで考えすぎてしまい、出来あがった写真を見ると、ピントはあっているし、露出は良好だし、手ブレもない、とても美しい写真だけれどどうも写真が平凡で、つまらないものになっている、という壁にぶつかっているアマチュア・カメラマンが多いと思う。

この壁は、アマチュアだけでなく我々プロのカメラマンも同じようにぶつかる壁なのだ。これは、美しい写真を作らなければとか、良い写真を写さねば、という気持ちが強く、写そうとする被写体をしっかりと見ることなく、ただテクニックだけを気にしすぎてシャッターを押しているので、最高に美しい表情とか、とてもかわいらしい動作などを見落としていることが多いのだ。

プロの写真家は、報道写真・フアッション写真・ヌード写真とジャンルに限らず、どの写真の場合でもこれだ! と思ったシャッター・チャンスの時は、あれこれと考えずにシャッターを押しているのだ。その時、ピントが合っているかなとか、露出は、構図は、手ブレが起きるのではなどと考えずに、まずはシャッターを押すことだ。

写真を撮ろうとするより、少女と一緒に遊び、その中で一瞬心臓がドキリとするほど美しい表情を見せることがある。その時を逃がさずにシャッターを押すことだ。

これからの写真は、形を作ろうなんてことをしないで感じたら写すということが大切だ。上手に写すというより、素直に写すことだ。

技術にこだわったり、高級カメラの使いもしない多くの機構に頼っていると、少女の感情や心を感じるという最も大切なものを見失ってしまう。

何かを感じ、ドキリとして我を忘れて撮影した時の写真は、少しぐらいブレていてもそこには君の心を打つ何かが写っている。

君が君の前にいる少女を美しいと思ったら、素直に美しい、とつぶやきながら写せば良いのだ。

[Translation is needed beyond this point.]

[4] 手ブレも味のうちと書いたけれど

手ブレも味のうちだからといって、どんな場合でもブレていたのでは、写真家としては失格なのだ。ただ我々プロのカメラマンは、どのような写真を写す時でも手ブレを起こさないような姿勢をとるし、手ブレの危険性があるスロ!シャッターはさけるように心がけている。今では、カメラの機構の中にオートにすれば、特別な場合を除いて適正な露出を決定してくれるので、1/60秒以下になったら三脚とレリーズを使用すればブレは無くなる。

手ブレの原因はとても簡単なことで、35m/mカメラで50m/m前後の標準レンズなら、静止の状態でも1/60秒以下のシャッター・スピードでは手ブレの原因になる。例えば、君が歩きながらとか不安定な姿勢の時にシャッターを押せば、1/250秒のシャッター・スピードでも手ブレはする。

105m/m200m/mの長焦点レンズや、300m/m以上の望遠レンズは、静止した状態でシャッターを切っても手ブレが起こる心配は多い。不安定な状態なら1/250秒でも、1/500秒でも手ブレは確実に起にるのだ。

写す時の姿勢が悪ければ標準レンズで、1/250秒のスピードで写しても手ブレは生じるが、1/8秒で写しても手ブレを起こさないでクリアーな写真を写すこともできる。正しい撮影動作と姿勢がある。

君の撮影動作や姿勢をもう一度チェックし再確認してみるとよい。

カメラをかまえた時、しっかりと左腕は脇腹につけ、右手は力を抜いてカメラを支え、両足は肩幅ぐらいに少し開き、体重を両足にバランスよくのせ、右手の人さし指の腹で静かにシャッターボタンを押す。たったこれだけのことでシャッターブレはかなり減ることになる。

しかし、手ブレのことだけをもう一度考えてみよう。手ブレの写真がブレているということだけで、その写真が失敗作だと決めてしまうのは、出来そこないの写真評論家や、出来の悪い編集者や、デザイナーにまかせておけば良いことで、手ブレも写真の味のうちということを認識してもらいたい。

新しいオ能のある写真家の間では、手ブレの魅力ある写真を作ることに全力をあげている。手ブレの写真を作るということは新しい技術だし、感覚なのだ。

僕が、今まで多くの雑誌に掲載してきた作品の30%ぐらいは手ブレなのではないかと思う。これは、始めの方に書いたようにシャッター・チャンスを大切にしているからだと思うし、写真だからといって、どんな写真でもストロボ撮影のようにピントがしっかりしていて、発色もいつも同じでなければいけないなんてことを考えたことがないからだ。シャッター・チャンスだと感じた時に、手ブレの危険性をかえりみずに熱中してシャッターを押しているからだ。

目の前のモデルの表情や動作がものすごく美しい時に、手ブレになってしまうかなどと考えていては、その美しさはすぐに消え去ってしまう。

まずは写すことだ。

写すことに熱中し無心になれば、そこに今までにない感動的な写真が出来ているはずだ。

[5] モーター・ドライブで写しても

良い写真が作られるはずがない

時たま撮影会の指導に招かれて行き、ものすごく驚かされるのだが、このごろの35m/mカメラといえば誰でもモーター・ドライブを使用し、モデルがその時どんなポーズであれ、モーター・ドライブを作動させっぱなしで、フィルムをどんどん使っている人をよく見かける。

フィルムを多く使えば、そのうさの何枚かはまあまあの写真は偶然できるかも知れないが、これでは誰が写しても同じことで、君の感性の良さ、趣味の良さなどは写真に写るはずがないし、その時の美しさを感じた時のドキリとした緊迫感などは写るはずがない。

モーター・ドライブの連続音はとてもかっこうがいいし、そのサウンドはカメラ好きの君を、いい気持ちにさせてくれると思うが、よい作品を作ろうとする君のすることではない。

僕も文明の利器であるモーター・ドライブを使っているが、これは、そのサウンドが好きなためでも連写するためのものでなく、フィルムを手で巻きあげる時に、どうしてもフアインダーから目が離れてしまうし、カメラを支える手も不安定になる。そんな心配をせずに撮影できるようにモーター・ドライブを使用しているにすぎない。

モーター・ドライブの使用法をもう一度考えなおし、ワンカット、ワンカットを大切に写し、フアインダーの中で君の個性や感性を磨いてもらいたい。

それにスポーッ写真と同じように、少女の写真というのは、その少女のほんのわずかな感情の流れで顔の表情や体の動作がどんどん変化するのだ。

大人の女のモデルのように、作られた笑顔や、作られたとり澄ました顔やポーズでなく、自然の感情から出てきた、キラキラとした生きた表情を、その一瞬のシャッター・チャンスを確実に写しこんでいくことが最も大切なことなのだ。

[6] 良い表情は話しながらだ

表情の変化を、君はただ黙ってシャッターを押すのではなく、君からモデルになってくれた少女にいろいろと話しかけ、その会話の中から生まれてくる生き生きとした笑顔やちょっと困った顔、すねた顔を写すことだ。

会話の途中で返事に困ってうつむいてしまった時の顔の表情も、とても良い表情だが、その時の手のしぐさや少女の体全ての動きも見逃してはいけない。表情というのは顔の表情だけでなく、手のわずかな動きや、指の形や足のくみかたも子供にとっては全てが言葉なのだ。それらの多くの君に語りかける言葉を、君は見逃すことなく写真にすべきなのだ。

表情の変化にも、変化の起こり始めたその時と、その変化の終わった時では全く別なものなのだ。少女の顔の表情、体の動きは大人のそれと比べたら、豊富すぎるぐらいに豊富なのだ。

少女の撮影はボクシングのゲームやサッカーのゲームなどを撮影している時と同じくらいに目の前で多様に変化し、微妙に変わるものだ。

少女だから、子供だからといってカメラマンの好きなように写せるなんて考えたら、それは大きなまちがいだ。少女の心は自由でおおらかで、いつも大空をかけまわっているようだ。君も大人としてではなく、子供の心と同じように、いつでも大空を飛べるようにしておかなければいけない。

少女とのコミュニケーションを会話で上手につくり、写す人と、写される人の気持ちさえ通じていれば、もちろん君にだってその熱意と集中力があれば出来ることだ。そのコミュニケーションさえうまくいっていれば、つぎの瞬間君の目の前にいる少女が、笑うか、または悲しそうな表情になるかは、ある程度察知予測して、その表情を待ち、それを確実に写しとることだ。

もうひとつ大切なことは、表情の変化を会話で誘うことだ。僕たちが撮影の時に、モデルと笑いながら楽しそうにしゃべっているように見えるのは、表情の変化を会話の中で誘いだしているわけだ。いい表情を写したいと思ったら、その表情を会話で作りだしてあげることだ。

モテルの表情がべストだと思った瞬間、ここと思ったら、何も考えずに、すかさずシャッターを押せ!いい写真が写せたと思った時の撮影後は現像が上がってくるのが待ち遠しいものだ。

[7] 少女の撮影は

緊張感をなくしてあげることだ

85m/mくらいの長無点のレンズで、モデルから少し離れた所から撮影を始めるより、35m/mぐらいの広角レンズで少女のすぐそばで一緒に遊びながら、おしゃべりをしながら、少女の気持ちをやわらげて撮影することが大切だ。

大人のプロのモデルでも、撮影の開始の時はかなり緊張しているし、その緊張から体を硬くしているものだ。

どんな撮影の時でも写し始めの段階では、モデルは美しく写るかなとか、リラックスして撮影が出来るかな“”コスチュームやへアスタイルはどうだろうなどといろいろなことを考えてしまうらしい。

撮影などになれない少女の場合は、何をどうしたら良いかわからず、また大人の中で仕事をすることにも不安を感じるだろう。そんな中でとまどいや、不安を感じながらカメラを前にしているのだから、まず最初にすべきことは、カメラなどは持ち出さずに、少女と一緒に座りこんで少女が喜びそうな、アクセサリーや美しい色のレターセットや文房具などをプレゼントしたりして、緊張している気持らをやわらげてあげるようにしている。

プレゼントされた物に気持ちを移行させ、プレゼントされたものを手にしてうれしそうな表情を、そのままポーズの注文なんかつけずに、どんどん写しまくることにしている。

仕事で少女を写す時は、初対面のことも多く、子供の警戒心や、はにかみも強いので、撮影の前はレストランで食事をしたり、撮影の直前は、少しだけ化粧してあげたりへアースタイルを、ちょっとだけ大人っぽくさせ、仕事で撮影というより、撮影ごっこというような雰囲気を作るようにしている。しかしこの撮影ごっこがあまり興に乗りすぎ、子供が遊ぶことばかりに熱中しだすと、子供は、子供達と遊んでいる時と同じと考え自由に動き出しすぎ、カメラのフレームの外へ外へと出てしまうこともあるし、室内の撮影の時などは、シャッター速度をはるかに越えた早い動きになってしまい、撮影できなくなることになるので注意しなければいけない。

[8] 子供と友だちになり過ぎると失敗する

僕が撮影の時に最も困ったことを書いてみよう。

あるフィルムメーカーの依頼で、イタリアのジェノバ郊外にロケをした時のことだ。その時のモデルは、ジェノバで活躍している若い弁護士の奥さんと、5歳になるおじょうさんと、東京を出発する時から決めていた。

この弁護士の家族との交際は、何回かのイタリアロケでいつのまにやら親しくなり、イタリアに旅すればいつも立寄っているし、僕達がいけば、いつも多くの人を集めてパーティーを開いて歓迎してくれる。そんなわけで、そのおじょうさんとはとても仲が良かったし気心もしれていたので、この撮影の企画があった時、モデルはこの近代的なセンスを持っている奥様と、わがままいっぱいに育てられているおじょうさんと決めていたわけだ。

しかし、自由活発に育てられていたし、僕とも仲が良かったので遊びながら楽しい雰囲気の写真が写せると考えていたのだが、その仲の良さが失敗の原因だった。

モデルになってくれた5歳のおじょうさんは、撮影の準備後、近くの公園に出かけてからが大騒ぎだった。カメラを向けると、一カ所にじっとしていず、自由に遊ばせながら写せば良いと考えていたので、少しずつ追いかけながら撮影を始めた。そのうち撮影になれてくると、追いかければわざと遠くの方へ逃げていき、僕に追いかけられるのを楽しみ始めた。これでは鬼ごっこだ。僕は、カメラを構える事もなく、シャッターを押すことも出来なかった。公園の中の大きな木の下では、その木の陰にかくれてしまい時たま木の陰から顔を出し、シャッターを押そうとすると木の陰に顔をかくす繰返しだった。木の横に廻りこもうとすると早くも次の木の陰にかくれてしまい撮影は出来ずにただ疲れただけの1日だった。

あまりに親しすぎたり、自由活発すぎる子供を撮影する時には、公園などのような場所では、子供の興味を持つ遊び道具を使ったり室内などの狭い場所で撮影しなければと考えている。こんな失敗はこの1回だけだったが、撮影には、いろいろな状況が生じるものだ。

[9] 1日の撮影時間は3時間

撮影のスケジュールをたてる時に、僕は撮影時間の長さを3時間までと決めている。

大人のモデルの撮影と違い、子供の精神集中力や、肉体の疲労度の限界は3時間と判断している。

この3時間の中で僕は、一つのシチュエーションを8分から10分で押え、次のシチュエーションへと転換させてしまう。

子供達の遊びの生態と、その行動を良く観察していると、一つの遊びに熱中しているのは5分から10分ぐらいのわずかな時間の長さしかない。遊びでもほんのわずかな時間なのだから、写真のモデルという制約された行動範囲と自由のなさにすぐにあきてしまい、何となく嫌なそぶりを見せ始める。

僕は、撮影の雰囲気を作らずに、子供と遊びながら撮影をする様にしているが、その遊びの輪に入りながら一緒に楽しみ子供たちがその遊びに興味を覚え夢中になっている時、少し離れた位置からカメラのシャッターを押し続けている。そして、子供達が何となくあきてきたら、すぐにコスチュームを変えたり、場所を移したりして子供たちに、次はどんなことをして遊びながら写真を写すのだろうと期待感を持たせることに努力している。そんな期待感を子供たちに持たせたら、その撮影は成功だ。

それと、なぜ一つのシチュエーションを10分ぐらいの短かいわずかな時間で押え、次のシチュエーションに移ってしまうのかということは、子供の撮影で最も大切なことが子供たちの生き生きとした表情や、その動きに魅力を感じているからだ。その動きや表情に生彩がない写真は、僕はただ黙ってそのフィルムをゴミ箱の中に捨てるか、焼処分にしてしまう。

子供たちの生き生きとした表情というものは、いくら名優でも作ることが出来ないほど魅力にあふれている。この魅力を引き出すことができるかどうかは、カメラマンの感性と優しさだ。

[10] 遊びのルールとフツトワーク

緑の芝生の上を、5月の風がさわやかに吹いている。少女たちが風とたわむれるように遊んでいる。

僕は、少女たちの周囲を動き回り、ためらうことなく、美しいと感じながらシャッターを押し続ける。少女たちの自然の動きに、僕もフットワークよく動きながら画面構成を瞬時に決め、そしてシャッターを押す。

5月のフローレンスの風は肌に気持ちがよい。僕の気持ちが少女と同じように軽やかに弾みだしている。少女たちは僕の存在やカメラのレンズなど気にせず、軽やかに5月の風の中で弾んでいる。天使たちが風に舞っているように。

僕はこんな時には、アングルがどうの色彩がどうだの、手ブレの心配はどうか、などということは何も考えないで、ただ、美しいと驚き、とても気持ちよくシャッターを押している。

撮影の前に、少女の写真はこう写さなければなんて決めてから写している人がいるが、子供たちはそんな意図したアングルに入ってくれるなんて考えないことだ。写真のアングルというのは無限だ。

子供たちが動いて良い範囲だけを、子供たちと話して決め、その範囲内で自由に遊び動いてもらうことだ。子供たちの遊びのルールと同じだ。

僕はその子供たちのェリアの外から、子供たちに負けないぐらい自由に動き回りシャッターを押している。

撮影前にアングルを決めていたのでは、子供のあの生き生きとした自由な写真は写せない。子供の美しさ少女の美しさは、あの、のびのびとした自由さにある。僕らもその回りを自由に動くだけの健康な体力とフットワークを持たなければいけない。

そして、自然の中に無心にたわむれる少女は、もはや自然と一体となっているのだ。少女を含めたその自然の美しさを、そっと、こわさないようにシャッターを押し続ける僕も、少女達から見れば、自然の中のものとしか見えないようになれば、その撮影は成功だ。

僕はいつも、そのように心がけている。

[11] はへたな演出プロにまかせろ

この23年の間で写真の見かたが変化してきた。写真の見かたが変化したというより、写真を楽しむという人たらが増えてきた。

その写真の見かたや楽しみかたも、非現実的に作りあげられた写真は昔ならとても芸術的だといわれ喜ばれていたのだが、今では非現実的な美しさよりも、モデルの生き生きとした美しさの方が喜ばれるようになってきた。

僕が今、シャツター・チャンスだと思うのは、モデルになってくれた少女が、とても自然な状態にある時だし、作られたものではない生き生きとした美しさを感じる時だ。

少女の撮影の場合は、少女が喜ぶような場所に行き撮影したり、室内での撮影の時には、子供の気持ちが楽しくなるような雰囲気を作りあげたりする。子供がそこで遊んでいて不自然にならないようにするのも写真家の技術だし、その技術を写真の中で不自然に見えないようにするのも写真家の技術なのだ。

君が、君の独自な雰囲気な写真に出したいと思うのなら、モデルの少女にポーズをあれこれとつけることを考えずに、モデルになってくれた少女をいかに美しく写すかということを考え、また、その少女をどのような雰囲気で写すのかということを計算に入れ、ロケ場所を見つけ、そこをいかに美しく飾るかということより、少女がそこで楽しい状態になれるように考えるべきだ。

ポーズも同じことがいえる。ただ、自然に自然にと好きな動きだけさせていると、前にも書いたように、子供は自分の遊びだけに夢中になり撮影なんてことは、子供はどうでもよくなってしまうので注意しなければいけないが、だからといってオーバーなポーズや無理なポーズをつけるべきではなく、子供たちの日常の中の動きや、例えば、朝には歯を磨く、シャワーを浴びる、本を読む、絵を描く、食事をする、フルーッを食べるなどのことを子供たちに演じてもらうのだ。その時は、大人の考えで演出するのではなく、その場、その場で子供たちが日常生活の中でいつもしているように演じてもらうことだ。カメラの前で日常生活をそのまま繰り返してもらえばよいのだ。その生活感がそのまま写真になる。

生き生きとした表情は、少女たちの日常生活をそのまま撮影すればよいのだ。

[12] 足は少しでも長く見えるように

もし、少女の足を少しでも長く写してあげたいと思ったら、どんなポーズの時でもよいから、足のふくらはぎのあたりから下をカットすれば足は細く見えるものだ。それは写っていない部分は、写真を見る人の多くが足がとても長く、美しいのではとイメージのよい方に想像し錯覚してくれるからだ。

足の長く見える写真の方が、写真が美しく見えるし、モデルになってくれた女の子も、わあ!きれいだと、喜んでくれる。

足を長く写す方法に、ワイドレンズを使うことがある。しかし、ワイドレンズを利用する時には、レンズのゆがみに注意しなければいけないが、画面の中に少女の全身を余裕を持って入れ、足の方からのローアングルから写せば足の長い写真になる。

もし、足が少しばかり太いモデルだったら、膝のすぐ下ぐらいでカットすれば、長くて細く美しいように見えるから不思議だ。またカットせずに足を長く見せるのと同じようにワイドレンズを使えばよいし、ライティングも、横からの光を利用し、足の側面にシャドウをつければ足は細く美しくなる。

写真というものは、あるものをあるがままに写してしまってはだめだ。いかに美しく見えるか、いかに長く見えるかということを考え、計算し、人間の持っている心理作用を上手に使い、錯覚の利用すればよいのだ。

顔が美しければ、プローポションまでも美しいと考えて期待してしまう。そのモデルの美しい部分を最大限に美しく写すことだ。そんな優しい心遣いと目が、モデルになっている少女の心に通じ、少女の気持ちが和らぎ、表情も体の動きも美しくなってくる。

[13] 遊んでいる時はキラキラ

講師などで行った撮影会でよく見かけることだが、アマチュアのカメラマンがモデルに、「あっ、今すごくきれいだから、そのままジッとして動かないで..そう、そのまま、そのまま」

モデルは、ポーズを決め動きを止めニコリとする。モデルの周囲をとりまいたアマのカメラマンたちが一斉射撃よろしく、ガチャガチャとシャッターを押しまくる。

しかし、こんな写真の撮りかたでは、撮影終了後、現像をしてみたところで、そのうちの何枚かの写真しか溝足できず、その何枚かがどこかに発表され、人の目に触れるのだろうか、何となくクリスタルではないが、何となくいつかどこかで見たような誰かが写したような写真か、前の撮影会で写したものと同じようなものばかりのはずだ。

少女の写真をこれと同じような気持ちで写していたのでは、その天真燗漫さや、エンジェルのような徴笑は、いつまでたっても君のカメラの中のフィルムには写り込まない。

生き生きとした表情や動きを撮りたいのなら、子供が動き出し、その流れの中で写すことだ。子供の笑顔や少女の笑顔というものはただカメラの前にじっとさせておき、

「さあ、笑ってごらん」

といったところで美しい笑顔を写せるわけではない。

カメラを向けて、

「さあ、笑いましょう」

の、写真では、どこか地方のスーパー・マーケットのチラシ用の写真と同じだ。いつまでもそんな記念写真に毛が生えたような写真にこだわり、そこから卒業できない人は、この本を読む前にまず、今までの写真の撮りかたなどは忘れ、子供たちの遊んでいる姿をじっとながめ研究し、何故、こんなに美しいうえにかわいいのだろうと考え直すことだ。それからカメラにフィルムを入れても遅くはない。

写真なんていうものは、あまりむずかしく考えず、もっと自由に、もっと楽しく、おおらかでよいものだ。

ポーズなんてものはつけない方がよい。

ただ自由に自然に遊んでいてくれればよい。

砂場で顔に砂をつけ、コスチュームまで砂だらけにして無心に遊んでいる子供ちは、あんなに美しいのに。そんな時、君の視線に気がついて、ふと、見あげた目はとてもキラキラと輝いていることを君は知っているはずだ。

そのあっ、かわいいと思った一瞬がシャッター・チャンスなのだ。

[14] 夏のビーチで曇つていたら

夏の海辺でのカラー撮影の場合、ブロのカメラマンでも曇り空を嫌がる人が多い。

夏の日は晴れて、強い陽ざしがなければ、夏の雰囲気が出ないなんて思っている人が多いようだ。しがし、夏だからといって、強い陽ざしの時ばかりではない。曇りの日もあれば雨天の時だってある。

夏のビーチに撮影にいって、たまたま曇りの日ならば逆にそれを利用して、あのアンニュイな、やわらかな夕方の雰囲気が出せるはずだ。

波うちぎわで、貝を拾い集めている少女の姿も美しいし、拾った貝を耳にあてて、波の音を間いている少女は、エンジェルみたいでとても美しい写真が出米る。

曇りの日は、太陽の光が雲によってヂュフューズされ、とてもやわらかな光となり、少女たちのもつ優しい雰囲気をそこなわずに写すことができるし、また、少女たちの傷つきやすい肌を太陽から守ることが出米る。

いろいろのカメラマンが写真の参考書や技術解説書に、

くもり空の場合は、太陽の光が雲によりヂュフェーズされ、そのため光が全体にまわりきって、キィライトになる太陽の直射光がなくなってしまい、メリハリのない、平面的な写真になってしまう。

などと書いてあるが、それは太陽の強い光でメリハリをつけなければ、平凡になってしまうような写真しか写せない写真家の言葉でしっかりとしたアイデアと素晴しい感性があれば、どんな光の中でも、どのような状態の中でも美しい写真を作ることができる。

君のアイデアしだいで、夏のビーチに青い空や、白い雲がなくても、夏の美しい写真は写せる。ギンギンの太陽がなくたって夏の雰囲気は出せる。太陽が出ていないからといって、カメラをバッグにしまいこむなんてことは恥ずかしいことだ。

太陽があり、白い雲があれば、冬の日本海でも夏の雰囲気の写真が撮れることになる。

夏の海には、太陽がなくても夏の雰囲気があり、冬の海は、太陽が出ていても、冬の雰囲気なのだ。人間の心の中で夏を知り、冬を知り、その知識がたとえ太陽のない夏のビーチでも、心の中は夏の華やかさで騒いでいるし、太陽がいかに明るくても冬のビーチでは心の中は、静かな落ちついた冬だ。

ただ、曇りの日には晴れの日の写真は撮れない。しかし、このことは夏のシーズンでも冬のシーズンでも同じことだ。大切なことは曇りの日でも、雨が降っていても夏の日には、夏の生活感が心の中にいっぱいなのだ。曇りの日でも、雨の日でも、青春の若さをもつ少女は、君の目の前で夏の雰囲気いっぱいに笑い、そして動き、そのしなやかな姿体が、君の感性を魅了すると思う。

君の目をもっと自由にし、夏のビーチは太陽がなければもうダメだなんてあきらめないことだ。

[15]シャワーやバスタブの中の写真は

撮影中に少女から、とても大切なにとを教えられたことがある。

ロンドンのポート・ベローで、15歳になるエマニエルという少女を撮影した時。

昨年の秋にロンドンへロケに行った時のことだ。その時のコーディネーター嬢にアンチック屋さんをしている親友がおり、その人の家を訪れた際に紹介されたエマニエルを写してみたくなり、2年ぐらい前に写した少女の写真を何枚か見せたところ、

「不潔な写真じゃないし、写真が美しいから学校が3時までには終わるので、それからでよければモデルになりたい。それに少し、おこづかいも欲しいし!」

この時は僕が写した何枚かの写真が、大切なコミニュケーションに役だったわけだ。

ここではそのコミニュケーションの詰ではなく、撮影中の会詰でその後の撮影の順序に、非常に役立ったことを書きたいのだ。

ロンドンの和人の弁護士のロフトを借りた。(ロンドンで平均的な収入の人は、ロフトの1フロアだけを買うか借りて生活しているが、この弁護士の家は地階から5階までを全て買い切り、その中を多額の費用をかけ改装し、アンチックな家具や装飾品を配し、シックなインテリアに統一され素晴しいものだった)。

イタリアのジェノバやミラノで紹介された弁護士の家は、とても素晴しいものばかりだった。外国でも弁護士の収入は、かなり凄いものらしい。3時からの撮影も順調に進み、1時間ぐらいたった時にバスタブでの撮影をしようとした所、エマニエルが、

「私は今、風邪をひきかけているので、撮影の一番あとにして欲しいの、シャワーの写真は、それも5分間ぐらい。それじゃないと、明日は学校にも行けなくなるし、ボーイ・フレンドにも逢えないしベッドの中で1日中悪い夢を見ているわ」

ロンドンは9月中旬にもなると、少し肌寒い上に、9月ではまだ暖房を入れることが出来ないので、バスタブに入りシャワーなどを浴びて、そのまま裸の撮影を続けていると、風邪をこじらせてしまうとのことだ。

僕はその時から、少女の撮影の場合に、バスやシャワーを使う時には、その日の最後のカットにと決めている。

バスタブの撮影にはバスを使い、泡をたてその泡と遊んだり、体の一部をわざと隠して変化をつけて撮影するようにしている。バスタブの撮影が終わったら、シャワーを使い、シャワーを前から後へと、また上から下へと手早く数多くのカットを撮影している。シャワーが終わったら、バスタオルで体を拭う。そのカットも、体全部をバスタオルで巻いたり、手や足をゆっくりとした動きで充分に汗をふきとってもらい、その一つ一つの動作を素早く1枚の写真にしてしまうことだ。それから、彼女達のお気に入りのコスチュームをこれもまたゆっくりと着てもらい、着終わったところで撮影終了だ。

少女の撮影の時は、少女の健康を絶対にそこなわないようにすることだ。健康をそこねるような状態まで無理をして撮影をしてはいけない。

フランスでは、子供の考えや発言が無視されることがないので、少女達が撮影の途中で、寒いからもう撮影は嫌だといったら、そこで撮影は中止にしなければならない。

少女の撮影は健康的に進めていかなければいけないし、不快なことがあってはならないのだ。

[16] 少女の日用品を小道貝に

人間の撮影というものは、少女に限らずその人間の空間というものがある。写真スタジオの空間のように、ただまっ白とかまっ黒なんて状況の中で生活しているわけではない。その人間の性格とか情緒とか教養などを写しこみたい場合には、どうしてもその人間が生活している状況を考え、その状況説明やアクセントとして小道具を使ってみたくなる。また、撮影になれてくるといろいろと欲が出て、その状況説明や画面に変化をあたえるためのアクセントとして小道具を使いたくなる。

その小道具もただの思いつきや昔の写真家のように、写真の状況が面白くなるからという理由だけで魚をとる大きな網や、原色のけばけばしい色彩のグロテスクなまでに大きな造花や、形のユーモラスなコントラバスのような楽器などを使用するのは、今ではナンセンスだ。

僕たち若いカメラマンは、小道貝にも日常性や生活感や存在感がなければ、それらを使おうとはしない。昔のカメラマンのように、ただ形の面白さや意外性だけで写真が写せる時代は終わってしまったのだ。

それでは少女の撮影で、どんなものが日常性のある小道具か考えてみたい。

砂浜の撮影の時、青空にくっきり浮かぶ雲も、水平線上の入道雲も、僕にとっては夏のビーチの上での撮影では小道具だ。ジェット雲などは、新しい感覚の小道具として、素晴しいじゃないか。

砂浜に打ち寄せる波、そして砂、風にたなびく髪の毛、波に濡らされて肌にまといつくTシャツ、これらはみな小道具なのだ。

少女の部屋で撮影の時も、小道具は何を使用しようかなどとむずかしく考えずに、例えば、少女が学校で描いた絵や、おもちゃ箱、おやつに出されたフルーツ、それまで着ていたコスチュームも、そのままベッドの下にでも、さりげなく置いておけば生活感を感じさせる小道具になる。

なぜ、日常性のあるものや、生活感のあるものを重要視するかといえば、今日このごろのTV放送で、スターと呼ばれている人間たちを見てもわかるように、雲の上の、なんだか偉そにしている人間くささを感じさせない人物よりも、テレビを見る人にとっては、親近感のある人間の方が、隣の家のミヨチャンみたいな少女の方がスターになっているのだ。

写真も同じことで、作りあげたつまらない写真よりも、肩のこらない親近感のある写真が好感をもって迎えられているのだ。

[17]ほんの少しだけ メイク・アシプ

少女の感情は、ほんの少しのことでとても楽しくなるものだ。女というもの、少女に限らずそういうものだが。

気分のよい時は明るく楽しげな顔になるし、その反対に気分の悪い時は沈んで暗い顔になってしまう。

少女が気分をよくして楽しげにしている時は、そのまま楽しげな顔をどんどん写してしまえばよい。出来上がって来た写真は、誰が見ても非常にハッピイな気持ちになるだろう。何か悲しく、どこか沈んだ時は、少女のメランコリックな写真になり、見る人にどうしたのだろうと思わせ、どことなく物語のある写真ができる。

しかし、暗く沈んだ写真よりも、気分のよい時の明るく美しい少女の方が、楽しい気分で撮影が出来るじゃないか。

僕が少女の撮影をする時、少女なら誰でも興味をもっていて、気分が明るくなってしまう簡単な方法をいつも利用している。

それは、撮影する前に、すこしだけ目だたないくらいメーク・アップをし、少女にちのいつもと違うへヤースタイルを作ってあげ、最後にほんの少し口紅を赤みがさすぐらいにつけてあげることだ。メーク・アップが出来あがったところで、鏡を見せてあげれば少女たちは急に大人になったような顔をして、鏡を見てニコニコしている。

撮影の途中で、気分を変える時も髪の形を変えたり、髪に色の美しいリボンをつけたりしているうちに仕事としての撮影も、いつのまにやら撮影ごっこになっている。

コスチュームを選ぶ時でも、ちょっと大人っぽいコスチュームにすると、なんとなく夢の中のお姫様みたいな顔を見せてくれる。

メーク・アップで最も注意しなければいけないことは、幼さとか子供らしさとか、健康的な面を失うまでのことをしてはいけないことだ。それは大人の撮影の時のように、本格的にメーク・アップをするのではなく、気分を乗せるためのもので、形だけの真似ごとでもよいということだ。ただ、ヘヤースタイルには、ほんの少し時間をかけてあげると彼女たちはとてもうれしそうだ。

[18] オート・カメラはハサミと同じ

今のカメラにはみなオート露出機構がついている。プロのカメラマンぶってオート露出なんて使わないよなどという人も多いと思う。しかし、露出の決定はプロにだってむずかしいものだ。

僕の場合、自然流なので特別な場合をのぞいて、オート露出機構を利用することが多い。

オート露出機構というのは、僕のようにモデルの周囲をグルグルと動きまわり、あらゆる角度からの撮影を時間をかけず、ボクサーのフットワークと同じような、流れるような動きで撮影する写真家には、露出はカメラのオート機構が露出の変化を適確に自動でやってくれるわけだから、ピント合わせをするだけでよく、とても使利な文明の利器だ。

ただ、オート機構だからといって、全く写す人の思うままとはいかないことがいくつかあるので、それは最初から例外として考えている。

例えば、3時すぎ頃からの夕陽に輝く逆光の海をバックにして、その逆光の輝きを生かしてモデル撮影すれば、モデルはまっ黒なシルエットだけになってしまう。それとは逆で、まっ白な壁の前とか、まっ白なコスチュームで写すと、モデルの肌は露出不足でまっ黒になってしまう。明るい窓の白いカーテンの前の写真も同じだ。

これとは逆に、まっ黒なコスチュームをつけての撮影は、顔の肌

色がすっとんでしまい、しらけたとまらない写真になってしまう。

こういった失敗の写真を反対に生かすこともあることを忘れてはいけない。

写真集のようなページ数の多いものを制作する時、同じような雰囲気の写真がなんとなく並んでいても面白くないので、意識的にシルエットの写真を作ることがある。

風景写真を写していても、同じような失敗もあれば、その撮影上の失敗を計画的に使い写真を作ることもある。

青空をバックにスッキリと白い壁の教会が建っていたとする。オート機構のカメラはこんな時、教会の白い壁の影響が強く、オート機構露出はその白壁の露出を計るので澄み切った青空はダークブルーになり、その中に教会の白い壁がとても清らかに写し出され、美しい写真になった。

僕にとっては、とても印象的な写真だった。

昔の写真のイメージなら、教会の壁の白さが目だっても、空が澄みきっていなければ失敗作だと思う。

今の時代は、セオリーだけでは通用しない時代なのだ。

オート露出機構のカメラとハサミは、使う人の能力と感性でどうにでもなる。失敗作から、その中にあ美しい部分を見つけ出し、バラエティーに富んだ写真を作るテクニック身につけることは、君の努力次第だ。

[19]素直にシャッターを押すということ

写真のプロの世界には、いろいろの分野がある。僕のように女性専門の婦人科といわれる分野や、スポーツ・自然・科学・動物・報道・静物・広告写真などと各方面さまざまだ。

特に広告写真などは、時計だけを一年中朝から夜まで写している人、洋酒なら洋酒を一年中写している人もいるのだ。

なぜ、その分野の専門家は、他の人達より優れた写真を作ることが出来るのだろうと考えたことがあるだろうか。それは、それぞれの被写体に対する理解度が、他の分野の人より深いからだ。

仕事として失敗が許されない世界に生きている専門家は、そのまでの経験につちかわれた注意力や観察力、それに、そのものについての専門知識が、与えられた被写体をどのように撮影すればいかに美しく、また、他の写真家より優れた写真を作ることができるかということ知っているわけだ。

少女の写真を写していて、少女というのはなぜこんなに天真爛漫なのだろう、そしてなぜ、こんなに変幻自在なのだろうと考えさせられてしまうことがある。こんなに自由に考え、こんなに自由に行動が出来たら素晴しいなあなどと思うことはいつもなのだ。

僕の少女の写真は、彼女たちの変幻自在さや天真爛漫さの中にある女としてのエロティシズムを、僕の心を自由に解き放して写すようにしている。

それに、僕は兄弟の中に女がいないので、少女の心の動きや、ものの考えかたというものが体験的にはわかっていない部分がある。

少女に限らず、大人の女を良く理解しているかと聞かれたら、女についても知らないことが多い。

女を写す、少女を写すことに関しては、そのものたちに理解するということに関しては、あまりにも専門家ではないのだ。

ただ、カメラを少女や女に向けた時に、目の前で繰り広げられる様々な少女や女の生活に魅力を感じ、恐れを感じ、また、かわいらしさを感じ、そして、その魅力に憎らしさを感じている。僕は、感じることが大切なのだと思う。

美しく写そうなんていう技術的なことよりも、そこで何を感じたか、感じた時に素直にシャッターを押せるかということが、写真を写すという行動の中で最も大切なことだ。

[20]決定的瞬間は作ることができる

少女を写す時に、決定的瞬間というようなシャッター・チャンスは、少女の一つの動作の中で作り写すことが出来る。

例えば、少女がつけているコスチュームを夏の日なら太陽の下で秋や冬ならば部屋の中で、ゆっくりと脱いでもらい、シャツのボタンを一つはずした時にシャッターをバシャ、二つ目をはずした時にも、シャッターをバシャと切るのだ。この同じような小さな動作でも、シャツのボタンをはずす時の一つ目と二つ目では、シャツの胸の部分の開き具合は大きく違う。それが三つ目になればその開いたすき間から、わずかに大きくなった胸の脹らみを写すことが出来る。

Tシャツやセーターを脱ぐ時でも同じだ。ゆっくりとした動作でTシャツやセーターをお腹の部分からたくしあげていき、わずかずつ出てくる胸をバシャ、バシャとシャッターを切ればよい。

一つずつの動作を写してしまうのだ。

脱いだものを足の周囲にそのままの形で置いておくのもよいし、一つずつたたんで置いていくのも、その一つずつのいろいろな動作に、その少女の性格が出てきて面白いと思う。

朝などは、ベッドに座ったままでパンティからGパン、そして、Tシャツと着ていく写真も、そのいろいろな動作が写真になる。

室内の自然光で写す時は、室内が明るくても1/15秒ぐらいのスピードでシャッターを切り、セーターなどを脱いで行く動作を手や足などの動いている部分だけをブラして写すのも、写真の中の動きを写すテクニックだ。

/15秒ぐらいのシャッター・スピードになったら三脚を使用し、動きのない部分のピントはシャープにすべきだ。

夏の日の外での撮影なら、かなり早くても、ブレることが少ないので、オーバーなアクションで、少女の着ているものを脱いでもらうのも面白い写真になる。

Gパンなどを脱いでもらう時には、片足を脱いだ後にもう一方の片足を上にあげた時に、わざとストップをかけ、不安定なポーズで転ばないようにしている少女の表情は、とても楽しい写真になる。こんな楽しそうな写真こそ少女の決定的瞬間の写真だ。

[21]フィルムを入れる前から撮影は始まつている

初対面のモデルを写す時というのは、僕らプロのカメラマンでも緊張している。

人間、初対面の時という場合、大なり小なり緊張感というものがある。それが仕事として、これからその人間の様々な面を理解し、多くの写真を撮影していかなければと考えると自然に緊張してくる。こんな時、写真家以上に緊張しているのは、モデルになってくれりた少女だ。それに、少女の場合まだ世の中の波にもまれていないだけに、その緊張度は、我々スタッフ以上だ。

僕らスタッフは撮影の前は、初対面のモデルは当然だが、二度目のモデルでも、時間の許す限り撮影の前のうちあわせを食事をとりながらすることにしている。お互いになんの予備知識も持たないままに撮影しだしたのでは緊張感が増すだけだし、そんな雰囲気での撮影では、お互いの気分が良いはずはないし、楽しいはずもない。

撮影の前は、レストランで食事をするようにし、食事をしながら話をし、話をしながらお互いに理解し合い、うちとけて友だちになれば、モデルの表情の動きや変化、目の動きや形、しっべっている時の口の形と動き、笑い顔やちょっとまじめな顔、うつむいた時の顔、あごをあげた時の顔、右側からの顔、左側からの顔と手や指の動作、体全体の動作などを自然に観察でき、彼女たちの良い面や美しい面をできるだけ写してあげるようにしている。

どんなアングルから、どんなポーズで写したら美しく写せるか、どんな動きの時に写したら最も美しいかということを、その時に予備知識としてしっかり記憶することだ。

撮影に入ったら、あとは楽しく遊んでいる様な雰囲気で写すことだ。

モデルにポーズをしてもらい、カメラをかまえた時に初めて彼女の顔を見たなんてことではだめなんだ。シャッターを押すという撮影が始まる前に、いかに美しい写真を写すかということを考え、作戦をたて、計画し、モデルになってくれた少女のことを出来るかぎりよく観察し知っておくことだ。

少女の撮影で少女との共通の会話がないなんて考えないことだ。学校のこと、ボーイフレンドのこと、遊びのこと、なんでもよいのだ。君が知りたいと思ったことをどんどん質問をしてもよい。彼女だって、何も話さずただ君と一緒にいても楽しくもないし緊張するだけだから、彼女が何か話しやすいように質問をしてあげることだ。

この本にいろいろと掲載されている少女たちの写真を見てもお分かりのように、全て外国で写したものだ。そして、イタリアの少女を写した時、その少女に初めて会い、食事中に彼女とどんな話しをしても(もちろん、イタリア語の通訳をつけてですが)、彼女の緊張がとけず、リラックスした状態にならなかったことがある。

その時、前の晩に行ったピザ・レストランで食べたデザートのことを思い出し、その話をしだしたら、ほんの少し興味を持ち出したので、これはしめたと思い、僕はバッグの中からタイリストとの打合わせ用のペーパーと色のサインペンで、木いちごの上にバニラ・アイスクリームが載っているそのデザートを絵に書いて説明したところ、急に目を輝かせ、テーブルをグルッと回り僕の隣の椅子に座って、その絵の余白に僕の名前を日本語で書いて欲しいとせがんで来た時には、今日の撮影は成功だと思った。その時に、もう1枚のペーパーに彼女の横顔の似顔絵を、とびきり、かわいらしく描き、日本語で、とても美しく、かわいい少女へと書いてあげたところ通訳にその文字の意味を間き、非常にうれしそうに僕の所まで歩いて来て、ほほにキスをしてくれたのだ。

こんな日の撮影の出来ばえは、よいものが出来るにきまっている。

ただ、少女の撮影だったのがとて残念だったが。

[22]日本の少女とアメリカや

ヨーロッパの少女との違い

3年か4年前に友人のパーティに招待された時のことだ。日本人やヨーロッパからのお客様の中に、何人かの10歳前後の少女が招かれていた。

パーティが始まり、1時間ぐらい経過し、パーティの人達がうちとけてきたところ、その中の1人の少女が僕と話しこんでいた友ださの所にやってきて、

「わたし、あなたのような人、とても大好きなの。目がとても優しそうだしあまり若すぎないし、お話がとても楽しそうだから」

といいながら、日本の大人の女が顔負けの色気を感じさせるような、なまめかしさを作って、大人の話しの輪に入り、一生懸命にヨーロッパで経験した生活を話し始めた。

そのおじょうさんは、日本人の母親と、スペイン人の父親の間に生まれたハーフで、生まれた時からスペインと日本の間を行ったり来たりの生活をしてきたそうだ。とてもきれいな日本語で話しながらも、その身のこなしや体での表現のしかたは、日本人の大人の女以上のものだった。

そのパーティに同席していた日本の同じ年ぐらいの少女達は、母親のそばでおとなしく子供っぽくすごしていた。

アメリカやヨーロッパの少年少女というのは、子供のころから大人と同じように扱われ大人の間で生活することになれているので、一人前の男や女としての独立心も強く、男の子は紳士然としているし、少女は淑女然としているようだ。

ヨーロッパやアメリカの少女たちから強く感じるのは、7歳から8歳ぐらいの少女になれば女はいかに美しくあるべきか、そして、その女の美しさをいかに認めさせるかと意識しているようだ。もちろん、このごろの女の子の中には何故、女が美しくなければいけないの、そんなことどうでもいいじゃないというような考えの子も多くなったが。

1年に4カ月から5カ月間ぐらいの海外ロケを、この数年間繰り返しているが、いつも感じることは、アメリカやヨーロッパの少女達に比べ、日本の少女はとても子供っぽく、色っぽくないのだ。というのは、女はいかに美しくあるべきかという意識が外国の少女に比べ少なく、その美しさを積極的に男に認めさせるということが下手なのだ。

女の美しさを認めさせるという意識もそうなのだが、ヨーロッパなどの少女たちは、その美しさをどのように美しく見せるかという演出を心得ている。

外国の少女と日本の少女の体の外見上の差にも大きな違いがある。ヨーロッパなどの少女に限らず、大人の女もそうなのだが体のメリハリが違う。胸のふくらみや腰の張り、太ももの太さなどは、ヨーロッパやアメリカの女からは動物的なものを感じるが、大人の女や少女に限らず日本人の体格や性格は、それに比較したら植物的だと思う。

アメリカの少女などは体の発育のことから見たら、14歳か15歳で日本人の20歳ぐらいの体格だし、色気はそれ以上にある。

12年ぐらい前にアメリカへ雑誌の撮影で初めて出かけた時に驚かされたことがある。

その時はコーディネーターの友人の家に行き、紹介された友人の妹の美しさや大人の色気に魅了されてしまった編集者が、

「あの女の子、とても美しいから、あの子のヌードを写そうよ。個人的にもつきあってみたいし……

その時のコーディネーターがひとこと、

「あの子いくつだと思うまだ14歳だよ。ヌード撮影は無理だね。それに、ガール・フレンドにするにしても、今はステディなボーイ・フレンドがいるからダメだね」

その14歳の少女は僕の目にも、20歳以上の大人の女に見えたのだ。その時に感じたことは、

ああ、なんてアメリカの女は動物的な魅力を持っているのだろうということだ。

写真というのは少女の撮影にもいえることだが、その外側の雨体的条件は別として、はっきり写真に出る。それと同じように、その少女が持っているいかに美しいかという自覚の強さと、それをいかに美しく見せるという演出のうまさという精神的なものも写真に写ってしまう。

日本人を撮影すると少女に限らず、大人の場合でもそうだが、写真の雰囲気がどうしても四畳半的な狭さや、湿っぽさがってしまう。それに比べ、ヨーロッパの少女やアメリカの人達を写すと太場の下の明るさみたいなものが出てくる。

日本の少女が人形的な美しさなら、それ外国の少女の美しさは、まさに生き生きとした野うさぎみたいなものだ。

僕はその野うさぎの魅力を、この数年追いかけて、アメリカやヨーロッパの国々を歩きまわっている。

[23]夜の雰囲気は ストロボを使わずに

ストロボ内蔵のバカチョンカメラが増えてきた。夜間や室内の少しぐらい暗いところの撮影は非常にイージーになった。しかし、何んでも全て明確に写りすぎている写真に、もう少しどうにかならないものか、出来たらのようなものが写らないものだろうかと君たちは、考えているのではないだろうか。

夜間撮影のとか、室内撮影のとは、いつたい何がどう写っていればよいのだろう。今のストロボ内蔵のカメラやストロボを使用しての撮影は、夜の撮影とは思えないほどの写真が写ってしまう。夜に写したはずなのに、撮影された写真からは夜のあの雰囲気はどこからも感じることは出来ない。

夜の雰囲気を出したいのなら思いきってストロボは使用せず、ローソクの炎や、ライターの炎でも、レンズ開放にし、スローシャッターで写せば、写真全体がオレンジ色になるが夜の雰囲気が出てくる。

懐中電灯があれば、ライターやローソクの光よりも明るいので、もっと自由な撮影が出来る。例えば、モデルのななめ横から影の出ぐあいを目で確かめながらライティングを楽しみ、撮影するのも面白い写真が出来る。

この時に注意しなければいけないことは、顔全体に平均してきれいに光があたるようになんてことは考えないことだ。逆に顔の半分以上が暗くなるように計算して光をあてることだ。この暗くなった部分が夜の雰囲気を出してくれる。

前にも書いたことだが、写真どいうものの概念なんてことを考えず、肌色が少しぐらいダークでもいい、ブレてもいい、色のバランスが少しぐらいくずれててもいいから夜の雰囲気、夜らしい味を写すということが大切なのだ。

生活の中にある雰囲気や存在感が写ってこそ、本来の写真なのだ。

夜の撮影だからといって、ストロボを使って撮影するということのほうが、本当は不自然なことなのだ。夜は夜の雰囲気でと考えるなら、昔からあった撮影のためのものではない照明道具を利用して撮影すれば、夜の雰囲気はかんたんに出せる。

[24]時間を切り取れ

写真のワンカットというものは、時の流れを一瞬にして切り取ってしまうもだ。だからといって時間がストップしてしまったわけではなく、逆に、時間の流れを映画よりももっと強く表現できるのだ。映像が時と同じく流れていかないだけに、切り取られた映像が人心に強く打ち刻みこまれるのだ。

映画やVTRTVの画像のように、時の流れが説明されすぎてしまうと、逆になんだこんなものかと思ってしまうことがあるが、1枚1枚の写真には、その前と後の時間が写しこまれていないだけに、見る側の脳裏でいろいろと空想し、その1枚の写真から豊かな時間があふれてくるのだ。

家族連れが行楽地で写す記念撮影の多くが、有名な美しい風景をバックに直立不動のままというのが多いが、子供たちの後ろ姿でも喜んで飛び回っている姿を、自然の流れのままに写してしまえばよいのだ。

日常的な行動をそのまま写してしまえば、その写真の中には喜びとか驚きとか感動が自ずと入りこんでしまい、1枚の写真の中に時間が表現されるのだ。

例えばプール・サイドで遊んでいる少女を撮影するとしよう。

泳いでいるところをそのままバシッ。

水をかけ合ってふざけているところをバシッ。

プール・サイドでバシッ。

カメラを意識して笑ったところをバシッ。

とび込み板の上にたっているところを、うしろからバシッ。

シャワーをあびているところをバシッ。

日常の行動を、そのまま演出せずに写してしまえばただの記念写真よりは楽しいし、その中にそれぞれの写真の前後の時間が写りこんでいるわけだ。

少女の写真を写す時も同じだ。記念写真を写すわけではないのだから、ポーズを決めてハイッ、バシッでなく、好きなように遊ばせて君は少女の持っている美しい時間を切り取ってしまえばよいのだ。

こんな時の撮影は200m/mぐらいのレンズを使い、3mぐらい離れ所から写すことだ。3mぐらいの位置からだと、写されていることをほんのちょっと意識するぐらいで、遊ぶことに夢中になると写されていることも忘れてしまうらしい。

200m/mぐらいの長焦点レンズだと少女の背景がある程度ボケてしまい、背景から浮きあがって美しい写真になる。

[25]第一印象を写真に…….

僕が撮影の時に、とても大切に守っていることがある。 それは少女に、初めて会った時の印象だ。 オーディション、よしっ、この少女を写そうと決意した時に、少女のよい点をノートすることにしている。

少女に会った時のイメーが、とてもあどけないな、可愛いなと思ったら、そのあどけなさを大切にして、写す場所、コスチューム、時間、そしてどんなストーリーでと決めておく。

少女のエロティシズムの表現は、幼さやあどけなさがあるだけに、不快感や不潔感が出てしまったら失敗だ。

少女をよく見て、その少女のよさを自然に写しとることで、そのエロティシズムというのは画面ににじみでてくる。

少女がおしゃまで、動きの多い時は、室内の撮影なんかより、庭園や、緑の野原でのびのびと動き回らせ、そののびやかな姿からあふれる健康なエロスを写すべきだ。

少女だからといって、みながみな天真爛漫というのではない。中には撮影ということで体全身の筋肉をカチカチにし、全く動くことのできない少女もいる。

こんな少女の場合には、室内でそれも、その少女が生活する部室を借りて、出来るだけ普通の生活のイメージにし、リラックスさせることが大切だ。

ユーモラスな少女は、そのユーモラスな面を強調してあげると、彼女も日常と同じような雰囲気になり、リラックスした時間の中で快適に撮影が進んでいく。

少女のエロティシズムの表現は、君があまり無理をし、考えて作り出そうとしても写せるものではない。少女をよく観察し、その少女のよさを自然に写しとること、君が素直に少女に接することで少女と君との心の波長が通じ、お互いの気持ちが理解できるようになったら、この時とばかりにシャッターを押しまくることだ。

シャッター・チャンスの時は、息を止め、心臓の鼓動も止め、獲物におそいかかことだ。

[26]コミュニケーションだ美少女にめぐりあつた時に)

寅さんのイメージの渥美清氏が、生ビールのTV・コマーシャルで英語が話せないことから、若いブロンドの女の子と仲良しになれず、思わず、

[コミニュケーションって、むずかしいな]

とつぶやく。

少女の撮影の時でもそうだが、たまたま町角で美少女にめぐりあっても、コミニュケーションできず困ってしまうことがある。イタリイやフランスで通訳がついても同じことがいえる。

フランスのニースで12歳の美少女に出会い、モデル依頼もしないうちから、

[私も写して]

と頼まれたことがある。

僕はその時、その5カ月ぐらい前に、ヨーロッ各地で写した美少女ばかりの写真集ヨーロッパの少女達・青い果実壱番館書房より55121日発刊)を、ニースに住んでいる友だちの写真家を訪れた時に見せたところ、写真家の12歳になるおじょうさんの友達がたまたま遊びに来ていて、その写真集を見て非常に気にいって、[この本に出ている写真の子供たちが皆楽しそうだし、とっても美しい写真なので私も写してください]

と僕に一生懸命頼みこんできた。

多くの言葉を使い、多くの時間をかけても自分の写真のイメージを、言葉や文字だけで相手に伝えるということは難しいことだ。

日本で同じ言葉で、同じ文化や文明の中で、同じ情報や同じような生活様式の中で生きていても、コミニュケーションというものは難しいことだ。それが違う言葉を活し、違う文化や文明を持ち、生活様式も情報も違う中ではお互いの考えを理解し合ういうことは非常に難しいのに、写真のイメージを伝えるというような抽象的なことはさらに難しすぎる。

僕は自分の写真のイメージを相手に伝えたいために、海外ロケに行く時などはいつも何冊かの写真集を持って行き、

これが僕の写真です といって多くの人に見せ、そこから多くの質問を受け、その質問に答えることでコミニュケーションの難しさを無くすようにしている。

そのニースの12歳になる少女とのコミニュケーションも1冊の僕の写真集を見せることから始まったのだ。

僕はその美少女に、最初に紹介された時は、あっ、かわいい少女だなと思ったぐらいで写してみようと考えもしなかった。だからといって、その少女からの依頼を断る気にもならかったし、僕が次にヨーロッパヘロケに来るのは、4カ月後ぐらいになってしまうし、12歳ぐらいの少女のこの4カ月間というのは、肉体的にも精神的にも大きな変化のある時で、今、目の前の少女がそのままのイメージの少女でいることはまずありえないから、まずは撮影をしようと急拠予定変更し、その少女の両親に会い撮影の許可が得られたら、ウィーク・エンドにどこかのコテージを借りて1日がかりで写すことにした。

少女の撮影に必要なことは、まず、君が写したいと思うイメージの少女を探すことだ。

この少女を絶対に写したいと思ったら、コミニュケーションするために、最大の効果のある君が今までに写した写真を見せることだ。

もし君が初めて少女の撮影をする時なら、君の写した少女以外の写真を見せ、そして、君の好きな写真家の写した少女の写真を見せ、僕もこれと同じように美しく写すからとコミニュケーションすることだ。まず少女の同意を時たら、両親の許可は少女が末成年なので必ずその両親に会い、承諾を得ておかなければならない。

撮影場所は、できるだけ健康的な美しいところや清潔感のあるところを選び、できるだけ美しく健康的に写すことだ。

撮影の際に少女のコスチームを選んだり、ヘアースタイルを直すことのできる女性同行することだ。何人かのスタッフで少女の緊張感をなくし、リラックスさせることが必要だ。

出来上がった写真の何枚かを、少女にプレゼントし、その少女が気にいったなら、その少女の成長につれて何回か写していくと、とても美しい写真集になると思う。

[27]アンダーウエアはかわいいものを

少女の撮影で非常に大切なものは、そのコスチュームであるアンダーウエアの選びかただ。

子供用のアンダーウエアは、あまりにデザインが悪くというより子供っぽすぎ、不細工すぎるので、僕の撮影の場合には、スタイリストが大人用のアンダーウエアの中で少女に着用させてもイメージを悪くさせないものを選び、そのサイズも、スモールサイズの中でも小さなssサイズを選んでいる。

パンティを選ぶときは、

小さいもの、

薄地のもの、

シンプルで色の淡いもの、

ブルー系かピンク系のものが少女の肌にとてもよく、少女の肌を美しく見せてくれる。

パンティの形としては、サイドの部分がロープやべルトの様になっているハンギングスタイルのものが, 全身を撮影する時に足を長く見せる効果があるし、大人っぽく変身させる。

日本人の体より、ヨーロッパの少女は、体つきも大人のエロティシズムを感じさせるので、小さなパンティは腰の張りや胴のくびれを強調するし、少女の体も、すこしばかりグラマラスな感じが出てくる。

少女っぽく、少女っぽく写した時には真白なコットンパンツがよい。それもちょっと大きめなパンティだと、ちょっとおしゃまな少女でも、急に赤ちゃんぽくなるから不思議だ。

写真は写す前のアイデア作りと、その計画、準備に時間をかけ、君の持っているイメージをさらによいものにするのだ。その準備の時間の中に写すことと同じぐらの楽しさがあるということを知って欲しい。

君のアイデア次第で、君の写真にオリジナルなよさが出てくるのだ。プロの写真のよさというのは、そのオリジナルな面をいかに多くするのかということにある。

[28]コットンのシーツには注意を

少女をベッドの上で撮影する時は、ベッドの上、そして、その周囲の状況を清潔な雰囲気にしなければ失敗する。

ベッドの白のシーツは、少女の撮影の時でもそうだが、大人の女のヌード撮影の時も注意しなければいけない。白のシーツは一見清潔そうだが、撮影し、写真になると不潔っぽいのだ。

白のコットンのシーツは、しみになりやすく、横からの光線でシャドウが出てしまい、何となく汚れたシーツというイメージになってしまうので注意して欲しい。

コットンのシーツしか用意されていない場合は、窓からの光だけでカーテンをするか、ガラス窓に大きなトレーシングペーパーをカーテンのかわりに貼って光をソフトにし、シーツのしわを目だたせないようにすれば不潔感がなくなる。

ベッドで撮影する時、オフ・ホワイトの毛布を使用すればシーツのように小さなしわが出ないので、見た感じより清潔感が出るし、毛布の大きなやわらかそうなウェーブが少女の体を優しく包みこみ少女の体をとてもナイーブな感じにしてくれる。

シーツの色を淡いブルーにすると夏の写真に涼しげな雰囲気を与えてくれる。こんな時には、夏のイメージをさらに強くするためにブルーのシーツのどこかに、窓からの太陽の強い光を部分的にあてれば、君の写真はパーフェクトだ。

暖かなイメージにしたければ、暖色の中でも、さわやかさのある淡いピンクを使うとよいと思う。

シーツを使う場合、しわが気になるので、薄手のものよりごわごわとした厚手のものを使い、しわの出来ないよう注意しなければいけない。

周囲の状況の細心の注意をはらい、準備が出来たら、あとはカメラをしっかりとホールドし、少女の心もしっかりとホールドし、美しいと思ったら一気にスパークだ。

[29]手や足そして指の動きは自然に

少女の手の動きや足の動き、そして、指の形や動きは、出来るだけ自然なものにしたい。わざとらいしものや、ただ、美しいだけの演出やポーズはやめたほうがよい。

少女のふとしたポーズが美しかった場合は、何も注意せずに、演出せずに、黙ってどんどんシャッターを押すことだ。

少女が恥ずかしそうに体の前で手を組んだり、指をからませたり、指でガラス窓に字を書いたり、カーテンをつかんだりする。そんな自然な動作を君は見逃してはいけないのだ。

少女がスカートかスリップを身につけていたら、手でそのスカートやスリップに指をからませれば、そこに少女らしい、恥らいの情感が生まれてくる。

窓辺の椅子に少女が座って、窓の外を見ながらブラウスのボタンを無意識にはずしたり、はめたりしている。何を見ているのかわからないけれど、静かな情景だ。朝の静けさが出るような気がするボタンのはずれわずかな透き間からの小さな胸のふくらみは、大人の女にはないかわいらしいエロスだ。

少女が緊張して、表情がこわばったり、ポーズが硬い時には、手に何かを持たせ、少女の意識をその手の中のもに集中させれば、少しずつ少しずつ緊張感が薄れて、君のカメラの前で自然さが出てくる。

モデルが緊張していたら、その緊張感をやわらげてあるのも良い写真を作るための技術だし、責任なのだ。

[30]ポーズにこだわるな

ポーズの美しい写真を作るということばかりを考えていると、人間の感情や心は写らない。

少女の撮影で大人の女と同じエロスを強調して、低俗な写真を撮ろうなんて考えるなら、少女の写真を写そうなどとは考えないで欲しい。

少女に対して安っぽい女のエロティシズムを写そうとか、ビニール本みたいな低劣な写真を写して、後で自己嫌悪にさいなまれるのは君自身なのだ。

それに、形にこだわったり、技術にこだわったり、高級カメラのメカニズムに頼っていると、少女の心の動きやその情感を写すという写真の大切な部分を見失ってしまう。

少女の心を感じ、感動し、我を忘れて写した写真には、君の素直な心も写っているのだ。そのような写真が人の心を感動させる写真なのだ。

君が君の心で感じた少女の心を素直に写せばよいのだ。

[31]男の想像というもの

男の想像力は、女の想像力より豊 かだ。とくに女の裸に関しての想像力はすさまいもので 、胸がちらりと見えたぐらいでも、その女性の裸のすべてを想像してしまうし、太ももがチラリと見えても その奧の方までも考えをおぽしてしまう。

その男の意識は面白いといより、全く自分勝手に都合のよい方へと思いこんでしまう。

少女のイロティシズムの写真は、全ての裸を写さずに、ある程度、コスチュームをつけ、上品なエロティシズムを制作した方がより美しい。

僕たちが1人の美しい少女をモデルにして、カメラを構え、シャッターを押している時など、 心の中で、美しい と意識していることを、写されている少女の方も感じてしまうらしい。

その時のモデルは、大人の女でも少女でも同じで、カメラの前でどんどん美しくなって行く。ホホを紅潮させながら

たさが美しい少女だなと意識し、少女が僕の意識を察して、美しくなっていく時は、写す 側も写される側も気分は最高だ。

君が少女の美しい写真を作りたいと思ったら、 君が写そうとする少女に夢中になることだ。君が持っている少女へのその熱い気持さを彼女に伝えることだ。

熱い情熱を、素真に少女に向けることだ。

[32]熱中写真と そのすぐ後で

少女の裸の写真や、スイミングェアの撮影は、少女の体の 微妙な曲線を生かして写さなければだめだ。その微妙なェーブを無視して撮影したら、誰がどう写しても大失敗だ。

その少女が持つ微妙な曲線を生かしながら、少女のポーズや、少女のよい部分をアピールするようなアングルをさがし出す。

最初のうさは少女も僕も、お互いに緊張しているので、少女の

[君の横顔がきれいだよ]

[目がとても魅力的だネ]

[とてもかわいらしい鼻 だネ]

などと話しながら、しかし、少女の周囲をグルグル回りながらシヤッターを押すことだ。

この時に、モデルをほめる言葉は、撮影前の食事の時や、ロケ地への移動の車でのおしゃべりの中で、少女に、[君の顔のどこが一番好きなの?]

と聞いておけば、

少女の好きな部分をまとをはずさずに、ほめることが出来るのだ。僕たち第三者がとてもかわいい囗もとだと思っていても、その少女が嫌がっていることもあるので、注意しなければいけない。

モデルの周囲を回りながらャッターを押すとで、光の状態やバックの風景が変わるのが当然で、その変わっていく状景の中で、これだと思う君のイメージにぶつかると思う。そのよい状態の中でシャッター・ャンスを待ち、今だ!”

というシャッター・チャンスがきたら、どんどん写しまくり、写しまくることで、少女も気分が乗ってくる。

[わあ、きれいだヨ]

[それで、いいんだよ]

[素晴しいよ]

と、彼女に短かい言葉をどんどん投げかけることだ。

リラックスして気分が乗ってきたら、ポーズがどうのこうのど考えることもなく、少女が生き生きとしてくる。その少女の生き生きとした美しさを逃さずに写しまくるだけでよいのだ。

互いが気分が乗ってきたら、カメラアングルなんてことはあんまり考えずに、その気分のまま少女の美しいプロポー以外の余計なものは写しこまず、その美しさに積極的に迫ることだ。

迫力ある写真が生まれてくる時は、そんな気分が最高潮の時だ。

少女が少しばかり疲れてきたなと感じたなら、少しモデルから離れて、少女の周囲の状況を説明的に写しこむことだ。この時に少女には何の演出もしないことだ。最高潮の気分が少しずつ薄らいでいく少女のアンニュイを写真が写るチャンスだ。

最高潮になった後の方がその余韻が残り、美しい写真になる。

[33]少女の撮影でも攻撃的に

僕でも時どき、ものすごい美少女を写していても、何となく気分が乗らず、ダラダラと撮影をしている時がある。そんな時の作品は写真の中に迫力はないし、写していても、少女にも写す側の気分が伝わり、動きも悪くなるし、ただ仕事だから、といった迫力のない撮影を続けることがある。

撮影はどんな撮影でも、テーマをはっきりと決め、モデルを決め、撮影の進めかた(ストーリーのあるように)も計算し、モデルと決めた少女に熱中し夢中になり、出来れば撮影の時にはその少女を恋し、その少女の心の全てを自分のものにするのだという気持をもたなければだめだ。

撮影というのは、精神的に攻撃的にならなければいけない。

カメラの前に美少女がいます。僕は写真機を持っています。それでは写真でも撮りましょうかなんてことでは、生き生きとした少女の美しさなんてのは写せるはずはない。

撮影中に君が誠意をこめて積極的になり、良い意味で攻撃的になれば少女だって、

出来るだけ努力してみよう

と、けなげな気持ちになってくれるものだ。

撮影中に君が攻撃的になり積極的になれば、少女も積極的になるから、そんな時は休まずに、気をぬかずに、弱気にならずに、シャッターを押しまくることだ。積極的な気分になると、少女が今までと違う新しい素顔を見せてくれる。

[34]ズームレズを多用すべまだ

ズームレの使用にいては、

[使用すべきじゃない]

[どんどん使うべきだ]

女性を写すプロのカメラマンの間でも考えが別れるが、僕はこのズームレをメインに使っている。

しかし、僕はこのズームレをズーミングというような特殊効果を出すために使ったことはない。

僕がこのレンを使う時には、撮影になれていない少女や気の弱い少女、緊張しすぎてしまう少女どの顔のアップを写す時だ。

初めのうちは、すぐそばで写しながら表情がこわばってきたなと思ったら、モデルから4 歩から5歩ぐらい離れ、全身を写す演出をし、全身を写しながら、やわらかな表情や自然は笑みが出てきた時に、そのままの距離からズームレンズを使い、少女が気づかないように顔のアップを写してしまえばとい。

こんな時には、全身を写しながらレンズを最長にして、顔のアップが写る距離を確かめておき、少女と君との距離を決めておくことだ。

また、君のその若さあふれるフットワークを発揮できないような狭いロケ現場で、表情のアップから全身でのの撮影をする時や、たまたま全身を写していて顔の表情が非常によい時にあせって少女に近づいていけば、驚いて表情が変わってしまうし、レンズ交換などをしていれば、その交換している間に表情はどんどん変化してしまうのだ。こんな時には自由自在に距離の移動ができるズームレンズを使う。

プールイドなどだ撮影中に、もっと少女に近づかなければと、夢中になりすぎて足を一歩踏み出したとたんに、プールの水の中にドブンなんて落ちてしまうことになる。こんな時にもズームレンズは便利だ。

[35]自然光は演出して使う

窓から太陽の光が強烈に入っている。

影が面白いから。

とても明るいから。

部屋の中の自然光が、ただ明るいからといだけでなく、もっと積極的に意識を持って光を作り、演出したければ君のオリジナルな写真とはいえない。

部屋の中に、木洩れ陽を計画的に作ったり、トレーシングペーパーデ太陽光をデフェーズしてソフトにするだけでなく。トレーシングペーパーの一部を破いたり、穴を木小あけたり、トレーシングペーパーを少しずらして間をあけて光の強弱をつけるか、または、直接に太陽光が少しだけモデルの体の一部にあてったり、ベッドのシーの一部にあてるようすれば、ただのやわらかい光と違う写真が出来る。

太陽光を計算し、君が主張したいモデルの体の一部にスポット的に使い演出するということは、光が時間の経過で少しずつ動き、時の流れを写しこむことになるし、少女はそんな小さな遊びにも夢中になり、無邪気な表情を見せてくれろ。

天気がよすぎて、直射光が強く、コントラストがきつすぎる時は窓のレースのカーテンを引いて光をディフーズすれば、リハリのあるソフトなライティングになる。カーテンがレースの場合にはレース模様の影がモデルの肌に映り、変化のある美しい写真になる。

[36]自然光は室內で大きく変化する

窓から入ってくる自然光は、部屋の中に入った時にはいろいろと大きな変化を見せるものだ。

室內に入ってくる太陽光は、部屋の外に樹木がある無しによっても大きな違いがあるし、窓の高さ、窓の大きさ、窓ガスの厚さや色によっても変化してしまうのだ。

最も気をつけぬばいけないのは、時間の違いだ。午前中の入りかたと午後の入りかたでは、太陽の位置か違うので、当然太陽光の入りかたは違う。

室內にはいろいろな形の家貝があり、カーペットが敷かれていたりすると、カーペットの色が明るい色だと、部屋全体がその色で占領されてしまいコスチュームも少女の肌色も大きく影響をうけてしまうので注意しなければいけない。

壁の色もあざやかな色は、カーペットの場合と同じように色を反射させる。

室內の自然光は、いろいろな色の反射をうけて微妙な色が混じり合って、コスチュームや肌に影響をあたえるので、注意して撮影し逆に利用するぐらいの積極さは必要だ。

室內での撮影は、快晴の時と雲りの日では発色が当然のように違うので、ロケ・ハンの時にテスト撮影し、発色の状態を調べておくことだ。

プロの写真家の場合、明るい雰囲気の写真を作りたい時には、窓の大きな部屋、それも南面と西面に窓のおる部屋で、午前11時ごろから午後5時ごろまで太陽光の入る部屋を選ぶ。內部の壁の色も、色の影響がなく光をやわらかく反射し、ソフトなライティングになる白か、白っぽい色を出来るだけ選ぶようにしている。

落ちついた雰囲気の写真には、壁の色や家具の色がダークな部屋をさがすようにしている。

自然光の入りかたも、南面の窓の場合は、午後からの光は時間の経過とともに変化し、時がたつにつれ部屋の奧まで差し込んでくる。また、雲の多い日は、雲がデェフューズの役目をして、全体にやわらかな光が入ったり、急に雲が切れて直射光が入ったりと変化のある写真が写せる。

ただ、直射光の時と曇ってしまった時では発色が違うので、気をつけなければいけない。

室內での撮影で、暖かい感じの写真を写したい時には小道具やコスチュームなど、暖色系のものを用意すればよい。涼しげな写真やクールさを出したい場合にはその反対だ。

[37]ロケ・ハン、あれこれ

ロケ・ハンの時に、その場所がただ美しいからとか、交通の便がよいからとか、安全で撮影しやすいからと、目で見ただけで決定してはいけない。

撮影したい場所がみつかったら、その場所に誰でもよいからモデルになってもらい、立たせたり座らせたりし、撮影を想定してカメラのフアイングーを通しながら、自分の撮影のイメージに合うか確かめることだ。

その場所が君のイメージに合ったら、太陽の出る方角、沈む方角撮影に最も適している時間は何時ごろかを調べ、ノートしておけば後日迷うこともないし、後々の撮影にも再び役だつ。

ロケ・ハンの時にポライドで撮影し、日付と時間・天候・その時の状況と印象などの諸条件を書き入れれば万全だ。

初めての土地でロケの場合、その土地でどかイメージに合った場所をさがす時、他の人が写した写真を参考にするとよい。しかし雑誌等に載っている一流の写真家のイメージの良い写真ど信用してはだめだ。モデルの顔写真と同じで、良い写真家は多少の欠点を見せずに、美しく見えるように写す技術を持っているので、風景写真にしろ、モデルの宣材用の顔写真にしろ、欠点絶対に隠してある。

僕は初めての土地に不案內の時には、駅の売店か、飛行場の売店で売っている絵葉書の中から、撮影のイメージに合っている土地があるかどうかをさがすようにしている。

絵葉書の写真はよくも悪くも、その風景や土地のよい部分も悪い部分もその風景写真を写したカメラマンの感性に全く関係なく写っている。その絵葉書の中に適している場所があれば、その場所を自分の目て実際に見に行き確かめ、その段階で決定するようにしている。絵葉書の中の風景は、ロケ撮影の時にはよきガイドだと思う。

いすれの方法にしろ、撮影のイメージに合った自分だけの場所を探し出すことは、自分の足であちらこちらを歩き回って、目で実際に見なければならない。

[38]夏のプールサイドで

夏の海辺やプールサイドの撮影なら、小夏色の美少女は健康的でこんなに素晴しい被写体はない。

海辺や、プールサイドの写真なら、小さなアクセサリーも何もいらない。若いはちきれんばかりの健康的な小麦色の肉体が、35m/mのフィルムの中で躍りあがっていれば最高だ。

焼けた肌に、汗やプールの水が太陽にキラキラとしていれば、こんなに素晴しい小道具はない。

小麦色に焼けた健康的な美少女には、アクセサリーは全くナンセンスだ。健康的な肌にどんな高価なアクセサリーも不似合だ。

撮影だからといって大人の女でも同じだが、美少女には絶対に化粧などさせないことだ。夏の写真に必要なものは、陽焼けした肌と、健康的な汗と、サンサンと輝く太陽と、小道具ならマリン用品(スキユーバマスクとかフィンなど)スイミング用品(泳用のめがぬ)ぐらいで良いのだ。

青い海を渡ってくる風があり、打ち寄せる波の音があり、どこまでも澄み切った青空があり、ギラギラの太陽があれば、少女が太陽の下で夏を感じ、青春を楽しみ、汗を流してくれるだけで写真になってしまう。

陽に焼けた小麦色の肌に、水着のあとがかわいらしく、少女っぽく残っているのは健康的でセクシーだ。

小さなビキニの水着ほど健康的に感じるのは少女ばかりでなく、大人の女もまた健康的だ。

少女の撮影で注意しなければいけないのは、撮影だからといって長い時間海辺やプールサイドで、あの強い太陽の下で肌を焼いてしまい、少女の肌を痛めてしまうことだ。真夏の太陽の下では、1時間も直接太陽の下にいたのでは肌には良くない。真夏なら午後3時過ぎの昼寝の後に、プールサイドで遊びながらの撮影が最適だと思う。

大人の女の撮影と少女の撮影とでは、少女の健康ということを考えてあげなければ、写真家として失格だと思う。

[39]トを合わせることにセオリーはない

君が美少女を撮影している時に、少女の目にピントを合わせようか、少女のかわいらしい小さな胸のふくらみにピントを合わせようかなどと迷ったことがあると思う。迷っているうちにシャッター・チャンスは逃げるものであっ、しまったなどと思った時は、後悔しきりなのだ。

ピントを合わせる時には、迷わずに君がその時に写したいと思った所にピントを合わせればよいのだ。

その時の君の感情とか、主張とかが写真に出ていて初めて素直な写真といえるのだ。

バストの形がかわいいなと思ったら、テレることなく、素直にバストにピントを合わせればいいじゃないか。ウジウジした態度で少女の撮影なんかしないほうがいい。迷うことなく君の感情のまま、ピントを合わせシャッターを押せばよいのだ。

それは望遠レンズの時でも、広角レンズの時でも同じだ。迷っていては何も写らない。迷わず、ググーと迫ることだ。

[40]生活感のある写真を

少女の生活空間をスタジオにして、その中で少女が生活しているままを写すだけで写真になる。

少女の生活の場を借りて写す時、撮影だからといって君の主観だけで整理整頓せずに、すこしぐらい乱れていても、汚れていても、その方が生活感があるのだから、そのまま写し撮ることだ。

この生活空間を利用するときに、注意したいのは、若い少女だけにあまりにカラフルな部屋だと、少女の美しさも、魅力的な肌の色も、その多くの色の中にうずもれしまう。原色の赤とか、黄色、それにブルーは出来るだけ整理して肌色を美しく見せるようにしたい。

少女の部屋でいつもの日常生活でしていること、例えば、勉強する、フルーツを食べる、編物をする、友達とおしゃべりをそる。詩を書く、読書をするなど、何でもいい。少女の写真なら少女の持っている魅力が1の写真になってしまう。あまり写真だからといって考えすぎないことだ。特別なことを考えて撮影したところで、何をやっているんだろう。この写真家はといわれるぐらいだ。

[41]ブドウとミルワの写真

ベランダのフロアに敷いたちょっと厚手のバスタオル、それにブドウの葉と青く小さなブドウの実はヨーロッパの雰囲気だが、これだけのシチュエーションでは生活感のない写真になってしまう。

生活感を出すためには小道貝を一つか二つ使ってみるとよい。

本を読む。絵を書く。枕を持ってきて昼寝をする。オレンジ・ジュースなどを飲む。16ぐらいの少女だったら、編み物をする。

この写真のように大きめのグラスでミルクを飲ませた方が、ちょっと形は悪いが、生活感を出したい時には、あまり美しく飾りすぎない方が良い。手をのばせばすぐに手に取れそうなもの、生活の中でいつもやっているようなことが撮影の場合、写されているという緊張感がなくなり、リラックスした精神状態になってくれる。

この写真の時は、朝の感じを出したかったのでミルクがよいと判断したのだが、もし、午後3時ごろの雰囲気の写真を写したい場合には、真っ白なお皿にクッキーを盛り合わせて入れ、ミルクと一緒に少女の脇に置いてみたいと思う。18ぐらいの女性なら、ワインを片手に持たせてもよいと思う。

小道具で生活感を出す場合、その少女が家庭の生活の中で、ごくあたりまえにやっていることをオーバーにならないように演出することだ。

コスチュームも同じことがいえる。

あまり実生活とかけ離れたような豪華なものや、色のけばけばしいものなど写真を見る人に親近感を失わせることにもなるし、色が多すぐる場合には不快感を与えてしまうことがある。

小道具もコスチュームも、それらを使ってシチュエーションの決定は、できるだけ生活感を出した雰囲気の方が、その写真をいつ見ても新鮮なものにしてくれるし、その写された時代というものが、生活感という形で写されているので、時がたつにつれ少女のころが楽しく思い出されるのではないだろうか。

写真というのは、その少女の一面を切り取るだけでなく、その時代の一断面も切り取り記録してくれるだけだ。

[42]緊張した少女にはペツトを

少女が君の前で始めてモデルになった時は、不安と恥ずかしさで身をかたくしていることが多い。

[ベットの上に横になって…]

と注文すれば、ただいつもと同じようにベッドに寝てしまうだけだろうし、

[さあ好きに動いて、いいよ]

などといったところで、筋肉まで硬直させ足を曲げようにも曲がらなかった少女がいた。

こんな時には少女の気分をやわらげるために、少女の意識をカメラ以外の他の物に向けさせることだ。

僕はモデルがアマチュアだったり、初めてのヌード撮影だったり気の弱い少女だったりの時には、ネコとか犬とかを借りて一緒に撮影するようにしている。少女の場合、そのベットとじゃれあっているうちに、撮影していることが意識外になってしまい、ネコや犬の動きにつれて少女も初めのうちはカメラを意識していてモジモジしているが、だんだんと体の動きが活発になってくる。

そのからの撮影はネコや犬の動きで、少女の動きに変化が出てくるから、君はネコや犬の存在を忘れて少女を写せばよいわけだ。時たまネコが画面に入ったり、時には尻屋だけだったりなんて写真もかなり面白い。

ただし、撮影の前にネコや犬が好きか嫌いかを少女に聞いておかなければいけない。

撮影中に急にネコを連れてきて、ネコが嫌いな少女だったら、撮影どころの話ではなくなってしまう。

[43]撮影はフツワークを大切に

写真を写すことは芸術なんかじゃない。今はもう、スポーツなんだ。昔の年老いた先生と呼ばれる大写真家のスタイルをまぬして、モデルの前に三脚をたてカメラをすえて、デンとして動かないなんてことはやめよう。

君はまだ若いんだから、その軽やかなフットワークを使い、モデルになってくれた少女の右に左にと自由に動き回ることだ。

上からでも、下のアングルでもよい。形にとらわれずに、もっと自由なアングルから写真を撮ることだ。

少女の前に座っただけならいつもでそこに座っていても背景も変化しなければ、光の状態だって変わるものではない。

右に回れば回っただけ光線の状態も変化し、少女の新しい魅力も発見できるし、左に回ってみれば、またそこに新しい少女がたたずんでいるわけだ。光線の状態が変化すれば同じ少女でも違った雰囲気が出るものだ。

一人の少女の同じポーズでも右に回った時と前から見た時、左に回った時では全く違う写真が撮れるのだ。少女の全方向、360度、つまり前後、左右、上下、といろいろなアングルがある。少女にああだこうだとポーズをぐずぐずという前に、君が少女の周囲を動きまわれば何種類もの写真が写せる。

ヌードの合は、あのやわらかな微妙な曲線が多いので、少女がベッドの上で横になっているだけでも、君のフットワークで全く違う写真になる。

例えば頭の方から写していたら平凡なカットだけど、足の方に回りこんでシャッターを押していくうちに、だんだん君の心はドキリとしてくるに違いない。

ドキリとするような写真は、君の男の目と心と精神と君のその軽やかなフットワークで写すものなのだ。

背景の変化にしたって、君が少女の回りを動き回るだけで自然の中での撮影なら、青空になったり、緑の中の少女だったり、ダークなバッグの中の美少女だったりと、どんどん変化するのだ。君はそのたびに驚き、驚きながらシャッターを切っていけばよいのだ。

君が動き回るにつれ、少女が君のカメラを意識しなくなり、顔の表情や手足の動きまでリズミカルになり、写されているという緊張感がなくなり、君と一緒にスポーツをしているような気持ちになっていくのだ。

[44]少女の体はキラリと写すことだ

少女の体の美しさは、大人の持っているあの迫力あるエロティシズムではない。

豊かなスト、みごとにくびれたウエスト、そしてヒップの張り、エロティシズムあふれる下腹部のゆるやかな膨らみ。これらの魅力は大人の魅力だ。

大人の女の肉体の豊かさを写すなら、どんなライティングでもどうにか写ってしまうが、少女のかわいらしい肉体美は、やわらかな半逆光で写すべきだ。

半逆光で撮影すると、体の曲線にしたがいリハリのある丸みとあの繊細で静かに触れてみたくらるような、うぶ毛が光にキラキラとしているのだ。

この半逆光での露出の決めかたは、シャドウの部分で露出を計ると、写真がハイキイになる。ハイライトの部分で露出を計ると、ダークになり全体に重みのようなものが出てくるが、シャドウの部分は真黒くつぶさない様にレフ板で明るさをほんのわずか補い撮影すれば、君の好きなエロティシズムあふれる写真が出来る。

露出が決定したら、少女の優しい曲線やなだらかな脹らみを彼女の自然な動きの中で写せばよく、あえて無理なポーズを演出して少女の持つしなやかさを殺さないようにすべきだ。

楽しみながら写すことだ。決して、あせらないくとだ。よい写真を写そうとあまりがんばらないことだ。流れの中で少女の魅力を追いかけることだ。

[45]少女は1人でいるより、2人でいると楽しそうだ

1人の少女をとても気にいり、写真のモデルとして何回か撮影してきたが、大人のモデルと違い、カメラの前で1人で写されていると少し緊張している。大人のモデルが持っている演技力や仕事への欲などは、まだ少女に期待しても無理だ。

僕は、少女の撮影の時、2人の少女を一緒に撮影することが多い。

少女たちは2人になると、その時が初対面でもすぐに親しくなにその親しさが撮影中の緊張感から解き放ち、笑い顔にしたって今までの無理をした作った顔とは違い、とてもうれしそうに笑い出す。

少女のそんな時の笑顔は天使のはうに美しいし楽しそうだ。

それもウフフフんて速慮っぽいものでなく、心の奧からの[アハッハッハ]というような笑いが一番良く似合うのだ。

少女たちが2人以上になるとほんの少しのことでほんとうによく笑う。その笑いの中に美しさもあり、生き生きとした生命感がある。

パリで2人の少女を写した時の話を書いてみよう。

その日は友人の家での撮影だったが僕が依頼した2人の少女は全くの初対面で、2人が紹介され、2人でおしゃべりを始めて5分もたたないうちに、もう親しくなり、ベッドの上で2人で昼寝の写真を写していても手を握りあったり、足をからませてみたり、相手の少女の脇の下をくすぐりだして相手が笑いをこらえているのを楽しんだりと、小さな動きがとても面白く、その一つ一つが楽しい写真になった。

大きなポーズなどは必要でなく、2人が自由に楽しんでいると、体全体から楽しそうな雰囲気が出てきて、シャッターを切るたびに素晴しい写真が出来た。

イタリアの友人の別荘で写した時も、同じだった。

樹の下で撮影を始めたのだが、1人の少女が野の花を摘んで来て年下の少女の髪に花をさしてあげ、そのたびに2人でクスクスと楽しそうな笑い声をあげて、イタリアの午後の風を髪にうけ、とても健康的な写真になった。

少女たちの美しさは1人でも非常に美しいが、何か僕たち大人の目を意識し遠慮っぽい動まになってしまう。決して楽しそうでないのだ。そんな時の写真は、どうしてもアンニュイな写真になってしまう。

アンイュイな写真も僕は好きなのだが、あの気怠そうな雰囲気は恋を知り、愛を知り大人になった女の方が似合うのだ。

少女の写真はやはり、髪に風をはらませ風の中を走りまわったり、木の下で2人で楽しそうにおしゃべりをしたり、午後のベッドの2人仲良く昼寝をしたり、ベッドの上で髪の形を直しあったりなどと、2人で楽しそうにしている雰囲気が一番よいと思う。

[46]少女はサラダのドレッシング

少女が持ているエロスは、サラダにかけるドレッシングと同じような風味が必要だ。

良質のエロスとすがすがしさ。

良質のサラダ・オイルと、さわやかな酢が微妙に混しり合っていなければ、サラダを囗に入れた時に不快感だけを味うことになる。

良質の上品なエロスと、美しい心が写真の中に写っていなければ、その写真を見る人に不潔感と不快感を与えてしまう。

この23年間、少女たちの生まれたままの姿を撮影しているが、少女たちが女として生まれながらにもっているエロスは、良質のサラダ・オイルだ。

その少女の体の美しさは採れたての新鮮な野菜だと思う。僕はその新鮮な美しさを上品な血や、少量のスパイスとさわやかな酢と、優秀な名コックと同じような秀れにあざやかな手腕で、1枚の写真にしなければいけないと思う。

写真家の目と心と少女に向ける優しさが、少女の写真を少女のエロスを美しいものにしているのではと考えている。

[47]大人と犬は入るべからず

ロンドンの町の中には公園が多い。

日本の町の中にある砂場とブランコとおすべりだけというような公園でなく、緑あふれる広大な公園だ。その公園の一角には、日本のフィールド・アスレチックスを小規模にしたような設備をもつ木やくいなどを立て、ならべてつないだだけの栅で囲った広場がある。

その広場の人囗には、

大人と犬は入ってはいけないという手書きのボードが立ててある。付きそって来た親たちもその入囗の栅の外で、読書や編み物や、たまたまそこで出会った人同士でおしゃべりをして待っているわけだ。

その子供の遊び場で、子供たちが少しぐらい危険なことをしても声をかけたり、栅の中に入って行って注意をしたりせず我関せずと自由奔放にさせている。子供たちは犬や猿になったように、のびのびと土の上を駆け回り、砂場の砂にまみれ、木に登り木の枝にぶらさがったり飛びおりたりしている。そんな自由奔放さや健康的なのびやかさが僕の目にはとても新鮮だちた。

目本の親のように何から何まで世話を焼き、子供たちはいくつになっても乳離れしないで甘えているような生活ではない。親と子の独立した関係に子供は親から離れ、こんな遊びを通して大人に育って行くのだなと思いながらながめていた。

海外ヘロケに出ていてもう一つ感心することは、女性に対する男の優しさだ。僕らからみていて、そんなにまで優しくては照れてしまってできないと思う程に優しいのだ。

その優しさというのは少年のうちから、90才ぐらいの老人達までもが同じなのだ。傍から見ていてもほんとうにほほえましい限りだ。

年をとった夫婦でも、日本の夫婦のようにもう見あきたなんて顔もせず、いつでも青春時代のように町を歩く時には肩を抱いたり、手をつないで楽しそうにしている。そんな優しさが少女たちや女性を美しくさせていると思うし、のびのびとした素直なイロスを発揮させていると思う。

[48]冬の3時過ぎ、夏の4時過ぎの、室內はトロピカル・オレンジだ

午後2時過ぎになると太陽は急に動出したかのように変化する。

しかし、複雑に変化する光を上手に利用すれば、スタジオ撮影のあの平凡すぎるライティングでは考えられないほど変化し、その変化する中で、君にも物語のある写真がとてもイージーに写せる。

少女も室內での撮影だし、太陽の自然光ということでかなりリラックスし、どこか暖かみのある写真になる。

冬の3時過ぎと、夏の4時過ぎの室內撮影は、次ページの写真のように暖かみのあるオレンジっぽい発色になってしまう。僕はこの暖かみのある雰囲気が好きで、この時間を待ってから撮影開始なんてこともあるほどだ。

太陽の光は室內に入って、さまざまに変化すると前に書いたが、夕方のこの発色の変化が好きで、僕はこの変化を利用するためにフィルターで色補正などという広告写真のセオリーみたいな馬鹿げたことはしない。

夕方になるにつれ少女たちの気分も、僕の気分も、そして僕のこの好きな色調も、健康はつらつさから、何かしら落ちついた中にもアンニュイな雰囲気が出ていてよいものだ。

室內で撮影の時にも、自然光の微妙な光を見逃さず、そのコントラストを上手に利用すれば、今までに君が写し得なかった雰囲気のある写真が出来るはずだ。

室內での自然光撮影で注意しなければいけないのは、窓から離れるにしたがって光量が少なくなり、それとともに室內の反射のため光が平均化することだ。

あまり光が平均化してしまうと、写真の中で少女の体にメリハリがなくなり、あの微妙な丸みや曲線もなくなってしまう。そんな時には鏡かレフ板を利用して、光にメリハリをつけることだ。小さな手鏡でも予想外の効果が出てくる。何でもトライしてみることだ。

[49]撮影後に

この本は、君が好きなページを好きなように見て、そして好きなように読めばよいと思う。原稿を書く時に、順序だて計画をたてて書いたものではなく、撮影の時のいろいろなことを思いだしたり、少女の写真を見て、その時の撮影状況の興味ある大切なことだけを書いたものだ。

原稿を書いた場所も、ロケ先のホテルや、レストランのテーブルの上だったり、旅客機の中や、空港のロビーだったり、原宿の僕のオフィスや、自宅のキッチンのテーブルだったりだ。

写真の選択は、見ているだけでも楽しいようにものを多くした。

写真の撮りかたといっても技術的なことは、大人の女のヌードを写す時と全く同じだ。しかし、少女に接する気持ちとか、撮影の状況を作る時には、少女の心というものを大切にしたいと思う。そんなことを考えながら、いつも撮影をしている。

Also included is a transcription of what appears to be a thank you letter:

あとがき
少女の撮影というのは、僕だけの力では何も出来ません。各方而の多くのかたがの協力でこの[少女を撮る]を作ることが出来ました。
イタリア・ミラノでイラストレーターとして大活躍中の周村研二さんには、超多忙にもかかわらずモデル探しからロケ地の手配までして戴きました。
おかげさまでこの様な1冊の本が出来あがりました。ありがとうございました。
また、ミラノでは通訳として食通の林秀子さん。
ロンドンでは、新しい感覚のコーディネーターとして国際的に売出中の堀沢マリ子さん。
パリでは、人形作りの勉強のかたわら新しい生活様式でパリを楽しむスタイリストの黒松洋実さん。
カリフォルニアで、コーディネーターとしてあの広大な地を所狭しと動き回っているチャロ・ミッシェルさん。
この本の少女の撮影の大部分を、その優れた色彩感覚を発揮して下さった、スタイリストとして魅力いっぱいの植草環さん。
みなさんのご協力をあおぎました。 どうも、ありがとうございました。
また、少女の撮影や、この [少女を撮る]を出版するにあたり、直接間接に協力を惜しまれなかった多くのかたがたに心からお礼を申しあげます。
1981年10月
大渕静樹